『教育研究』2022年12月号で気になった論考が2つありました。一つは、佐伯胖「リフレクションと「問いづくり」」。もう一つが、中野信子「「リフレクション」が失敗する原因とは」です。
授業の終わりに学習の振り返りや疑問を書かせ、それを次時の授業に生かすことをよくします。しかし、果たして、この活動が学びを深めたり、学習意欲を高めることにつながっているのか? という疑問をもっていました。
◆ 佐伯胖「リフレクションと「問いづくり」」
本特集の最初に、3年生の「モチモチの木」で、「問い日記をつくろう!」という実践が紹介されていました。
佐伯胖氏は、この実践に対して、
「問いをつくろう」として物語を読むというのは、物語を「その世界に入り込んで」読むのではない。むしろ、「入り込む」のではなく、話の筋をヒトゴトのように、傍観者的に、「何がどうなったか」という事実の流れ(筋書き)を淡々と(情感抜きに)捉え、そこから何か「問い」らしきことを見つけようとして読むということであろう。
p.19
と述べています。
「問いづくり」は、私も授業でつかいますが、子供たちの立てた「問い」は、授業を進めるためだけの材料になっているだけではないかと感じていました。
私が国語の授業をするときに感じていた違和感は、「問い」らしきことを見つけようとして読むことにあったんだと理解しました。
佐伯氏の論考のように、子供たちに「問い」を求めることは、物語に浸ることを妨げている可能性は十分にあると感じました。
論考の最後には、
教師の「意図」を先取りしてそれに「応えよう」と「がんばっている」子どもが「評価」されることには、あえて疑問を呈しないではおられない。
p.19
と結んでいます。
◆ 中野信子「「リフレクション」が失敗する原因とは」
授業の最後に、「ふりかえり」や「まとめ」を書かせることがあります。
「ふりかえる」ことには、なんらかの良いことがあると思われているから、取り組まれているのだと思います。
また、「○○がうまくできた。」、「○○のことが分かった。」という内容よりも、「最初は、――だと思っていたけど、□□だと思う。」のような思考の修正の記録を子どもたちに求めている節もあります。
しかし、これまでの経験から、自分の学んだことや、思考の修正を言語化できるようになるのは、小学校高学年以降ではないかなと感じていました。
中野信子氏は、
そもそも子供の脳は、自分の活動を主体的にふり返ったり、更にそこから次のプロセスを組み立てたりするといった領域は未発達だからだ。
p.12
と述べていて、なるほどと思いました。
子どもたちは、「今」という瞬間を生きていますからね。
また、佐伯胖氏は、ショーンの論考を基に、
つまり、子ども自身は明確な概念枠で捉えて、その概念枠を「修正」しているわけではなく、まさに対象(ブロック)を見て、触って、握って、振って……なんとなく「真ん中」感を探し当てているのであって、まさに「感じ(feeling)」の探究である。ショーンはそれを「言葉で説明する」ものではないとしている。
p.18
と述べています。
ブロックの操作と、国語や算数の学習では質は違いますが、授業でも同様のことが起こっているのではないかと感じています。